大判例

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高松高等裁判所 昭和49年(ネ)248号 判決

控訴人

右代表者法務大臣

坂田道太

右指定代理人

福富昌昭

外一二名

被控訴人

吉井学

外八名

右九名訴訟代理人

徳弘寿男

主文

一  原判決中控訴人敗訴の部分を取り消す。

二  被控訴人らの請求を棄却する。

三  控訴人に対し、

1  被控訴人吉井学は、金一三七万八三〇〇円及びこれに対する昭和四九年一〇月一四日から支払ずみまで年五分の割合による金員を、

2  被控訴人山﨑忠彦は、金一九二万〇三三七円及びこれに対する昭和四九年一〇月一四日から支払ずみまで年五分の割合による金員を、

3  被控訴人榎一は、金六三一万九五三一円及びこれに対する昭和四九年一〇月一四日から支払ずみまで年五分の割合による金員を、

4  被控訴人鎌田豊秋は、金四七万七二九五円及びこれに対する昭和四九年一〇月一四日から支払ずみまで年五分の割合による金員を、

5  被控訴人細木正義は、金一〇七万七〇〇一円及びこれに対する昭和四九年一〇月一四日から支払ずみまで年五分の割合による金員を、

6  被控訴人佐田晴重は、金四〇二万一九三〇円及びこれに対する昭和四九年一〇月一四日から支払ずみまで年五分の割合による金員を、

7  被控訴人山﨑益夫は、金三四七万二二四七円及びこれに対する昭和四九年一〇月一四日から支払ずみまで年五分の割合による金員を、

8  被控訴人矢野川信明は、金三二〇万六八二二円及びこれに対する昭和四九年一〇月一四日から支払ずみまで年五分の割合による金員を、

9  被控訴人矢野川才吉は、金二六三万〇六五九円及びこれに対する昭和四九年一〇月一四日から支払ずみまで年五分の割合による金員を、

それぞれ支払え。

四  訴訟費用は第一、二審とも被控訴人らの負担とする。

事実《省略》

理由

一被控訴人らの農作物に対する被害の発生

〈証拠〉を総合すると次の事実が認められる。

1  被控訴人吉井学は、昭和三九年、高知県中村市山路へ養子となつて来て農業を営み、同四四年一〇月ころから、別紙図面記載の田Aで、その東側一〇メートル付近に深さ10.5メートルくらいのパイプを打込み、その地下水を灌水用に汲み上げ、ビニール・ハウスによる促成きゅうりを裁培し始めたところ、同四五年一月ころ、右きゅうりが井戸水中の塩分のため、その生育に相当の障害を受けた。同井戸水は、同月二七日、中村農業改良普及所により調査された結果、塩分濃度1.5ミリモーであつた。ちなみに、ハウス野菜灌水用塩素濃度は、土質、土壤環境、作物により差があるが、おおむね0.4ないし0.6ミリモー以上は不適である(モーは、電気伝導度のことで、一ボルトの電位差のある導線に一アンペアの電流が流れているとき、この導線の導電率は一モーであり、その一〇〇〇分の一が一ミリモーであることは、当裁判所に顕著である。現代用語の基礎知識九三八ページ)。

2  被控訴人山﨑忠彦は、代々家業である農業を営み、昭和三五年ころから、中村市山路上木戸地内で、同三八年から、別紙図面記戴の田、畑Bで、農家が共同して付近に何か所かポンプを打込み、水の深さ九メートルくらいの二か所の井戸から地下水を灌水用に汲み上げ、ビニール・ハウスによるトマトやきゅうりを裁培して来たところ、同四四年九月以後に播種したきゅうりが、同四五年一月ころ、右井戸水中の塩分のため、その生育に重大な障害を受け、後作きゅうりは全部枯死するに至つた。同井戸水は、前同様の調査の結果、塩分濃度2.0ミリモーであつた。

3  被控訴人榎一は、以前からきゅうりを裁培していた者であるが、昭和四四年から、別紙図面記載の田、畑Cで、付近の深さ一〇メートルくらいの井戸から、地下水を灌水用に汲み上げ、ビニール・ハウスによるきゅうりを栽培し始めたところ、井戸水中の塩分のため、同四五年初めころ、抑制きゅうりに奇形果が出るなどその生育に重大な障害を受け、同年度の促成きゅうりと後作きゅうりはほぼ全滅した。同井戸水は、前同様の調査の結果、塩分濃度1.65ミリモーであつた。

4  被控訴人鎌田豊秋は、昭和四五年当時、別紙図面Dの場所で、付近の新中筋川右岸の河原に二インチのパイプを打込み、地下から水を汲み上げ、これを利用してい草を栽培していたところ、右地下水中の塩分のため、い草が全部枯死した。同地下水を湛水したものは、前同様の調査の結果、塩分濃度9.0ミリモーであつた。

5  被控訴人綱木正義は、以前からトマトを栽培していた者であるが、昭和四五年当時、別紙図面記載の田Eで、付近の新中筋川右岸の河原にパイプを打込み、地下から水を灌水用に汲み上げ、ビニール・ハウスによるトマトを栽培していたところ、右地下水中の塩分のため、その生育に相当の障害を受けた。同地下水は、前同様の調査の結果、塩分濃度0.4ミリモーであつた。

6  被控訴人佐田晴重は、代々家業である農業を営み、昭和四〇年ころから、米作のほかに別紙図面記載の田、畑Fで、付近の深さ一〇メートルくらいの井戸から1.5インチのパイプで地下水を灌水用に汲み上げ、ビニール・ハウスによるきゅうりを栽培していたが、右井戸水中の塩分のため、同四五年一月、抑制きゅうりが、果形が乱れ、収量も落ち、同年二月ころ、促成きゅうりが、その生育に相当の障害を受けてほぼ全滅し、そのころ、後作きゅうりが、全滅した。同井戸水は、前同様の調査の結果、塩分濃度1.4ミリモーであつた。

7  被控訴人山﨑益夫は、終戦後、中村市山路へ養子となつて来て農業を営み、遅くとも昭和三八年ころから、別紙図面記載の田Gで、付近の深さ一〇メートルくらいの井戸から、地下水を灌水用に汲み上げ、ビニール・ハウスによるトマトの栽培をして来たが、同四五年当時、トマト、抑制きゅうり、後作なすを栽培していたところ、右地下水中の塩分のため、それらに奇形果ができるなど相当の障害を受けた。同井戸水は、前同様の調査の結果、塩分濃度1.6ミリモーであつた。

8  被控訴人矢野川信明は、昭和二一年一月、中村市山路へ養子となつて来て農業を営み、同三九年ころから、別紙図面記載の畑、田Hで、当初は、渡川(通称四万十川)の河原にい草の深さ三メートルくらい打込んだポンプから水を汲み上げ、その後、右畑、田の付近の深さ六メートルくらいの井戸から、地下水を灌水用に汲み上げ、ビニール・ハウスによるトマトの栽培をして来たが、同四五年当時、きゅうりを栽培していたところ、同年一月、抑制きゅうりが、右井戸水中の塩分のため、その生育に相当の障害を受け、その後ころ、促成きゅうりと後作きゅうりも同様の原因で障害を受けた。同井戸水は、前同様の調査の結果、塩分濃度0.9ミリモーであつた。

9  被控訴人矢野川才吉は、昭和四〇年ころからトマトを栽培していた者であるが、同四五年一月当時、別紙図面記載の田、畑Iで、付近の深さ一〇メートルくらいの井戸から、地下水を灌水用に汲み上げ、ビニール・ハウスによるトマトの栽培をしていたところ、そのころ、トマトが右井戸水中の塩分のため、その生育に相当の障害を受けた。同井戸水は、前同様の調査の結果、塩分濃度1.3ミリモーであつた。

以上のとおり被控訴人らの揚水して使用していた地下水に塩分が入り被害を受けた事実が認められる。

二本件地下水が塩水化した原因

1  山路地区の従前の地勢

被控訴人らが居住し、かつ耕作地をもつている中村市山路地区は、渡川河口から約4ないし6.5キロメートル上流の南岸(右岸)沿いに位置し、北面は渡川が西北よりゆるく北に湾曲して東南に流れ、西側は甲ケ峰山塊が南から北へ渡川にまで達して西方の坂本部落との境界となり、中央部は三原台地から流れ出た山路川がゆるく蛇行しながら平野部を肥沃しつつ貫流し、右山路川は実崎で渡川と合流し、渡川支流の中筋川は山路地区より上流の甲ケ峰山塊西側で渡川と合流していたことは、当事者間に争いがない。

なお、渡川及び山路川の状況については、後記のとおりである。

2  新中筋川の設置とその影響

控訴人が、甲ケ峰山塊西側で渡川と合流していた中筋川の流水路を変え、甲ケ峰山塊の低い部分を開削し、山路地区中央部を経て実崎築堤北側に至る新水路を作り、甲ケ峰西側合流点を閉鎖し、中筋川を実崎築堤で渡川と合流させるよう計画を立て、昭和三四年ころから実施し、同三九年二月上旬、原判決別紙図面(一)のとおり工事を完成したことは、当事者間に争いがない。

〈証拠〉を総合すると、次の事実が認められる。

控訴人の国は、多年にわたる中筋川沿岸の洪水を防止するため、まず中筋川と渡川の合流点を坂本背割堤を築造することにより一八〇〇メートル下流の甲ケ峰西側付近へ付け替えたが、なお災害が発生したので、甲ケ峰を開削して新水路を造ることにより右合流点を更に三〇〇〇メートル下流へ移すよう計画し、昭和一一年ころから用地買収にかかり、同一三年には甲ケ峰開削工事に着手した。しかし、同工事は、戦争のため資材難等に陥り中断することになつたが、控訴人は、同二八年、渡川の総体計画を立て、山路地区の補償問題等で難航したものの、前記のとおり新水路(以下「新中筋川」という。)を完成した。山路地区の耕作者らは、右工事に伴い合計三〇町四反二畝六歩の耕作地につき控訴人から離作補償を受け、大半の耕作地を手離した。他方、新中筋川が完成した結果、中筋川沿いの水田約一五〇〇ヘクタールが水害を免れ、年間に水稲三二六〇トンが増収されることとなり、この地方に大きな恩恵をもたらした。また、新中筋川は、ほぼ山路川の旧流路に沿つて築造され、流水部分の幅員が約二〇メートルで水量も豊富であるが、昭和四三年一月の平均河床高が釣ケ谷橋付近から実崎付近の間において計画河床高よりおおむね高いTPW(TPWとはTP((東京湾中等潮位、すなわち陸地の基準面のことで、現在では水準原点下24.414メートルとなつていることは、当裁判所に顕著である。海洋の事典四一五ページ))から0.113メートル引いたものをいう。)マイナス二メートル前後とみられ、山路川よりその河床は低く、山路地区内における山路川旧水路が干上がつているほか、同四五年一月二七日午前一一時ころ、山路橋の上流五〇メートル付近で10.6ミリモーという高濃度の塩分が検出されているし、山路地区より西方の上流にある坂本橋付近で、新中筋川の流量が毎秒につき一トンを割るような時期には、同所付近まで塩分が遡上する。そして、山路川の旧水路は、洪水時に河口の実崎付近で海水が浸入することがあつたほかには流水につき塩分が問題となつたことはなかつた(もつとも、山路川の旧水路に塩分が皆無であつたかどうかは不明である。)。新中筋川は、河床が低いうえに渡川の塩水化した部分である実崎に河口が設けられてこれと直結されたため、渡川を経由して山崎地区の西方付近に至るまで海からの塩水が遡上するようになつた。

3  渡川における砂利採取とその影響

渡川は、一級河川であり、控訴人の管理に係るものであること、渡川の砂利採取量は、昭和三二年には五〇〇〇立方メートル、同四〇年には二四万一五〇〇立方メートル、同四一年には四九万七〇〇〇立方メートル、同四二年には五一万七五〇〇立方メートル、同四三年には三四万四〇〇〇立方メートルであつたことは、当事者間に争いがない。

〈証拠〉を総合すると、次の事実が認められる。

渡川の砂利採取は、昭和三〇年ころまでは需要も少なく、手掘り採取で荷馬車運搬をする程度であつたが、同三二年ころ初めて陸上採取機一台が四万十川橋上流1.0キロメートル付近に入つて採取するようになり、同三五年ころから、河口港である下田港において、ガット船により航路維持を兼ねて砂利採取が始つた。その後、国内の建設工事の急激な伸びに比例して骨材需要が拡大し、砂利の需要も増加した。渡川においては、昭和四〇年度に採取業者一三社が陸上採取機八台、バケット式採取船三隻、ガット式採取船六台により砂利を採取していた。控訴人は、同四〇年四月に渡川が一級河川となつた以後、砂利の乱掘を防ぐため規制区域を設定し、河川管理の適正化と計画的採取を図るべく砂利採取基本計画及び規制計画を定め、昭和四三年度においては、前年度採取分より三〇パーセント減、同四四年度においては同四三年度採取分より二〇パーセント減(実際の採取量は二七万二二〇〇立方メートル)とするなどの規制を行なつた。しかし、渡川においては、砂れきの生産が比較的少ないので、山路地区付近から下流にかけて存在していた幾多の洲や瀬が、右のような砂利採取により大幅に減少し、河床が低くなり、海からの塩水遡上の影響が山路地区付近まで顕著に現れ、昭和四五年一月二七日には、山路橋北側付近の流水から5.5ミリモーという高濃度の塩分が検出されるに至つた。

被控訴人らは、渡川は淡水河川であり、従前山路地区付近におけるその流水には塩分が全く存在しなかつた旨主張し、原審証人小野勝義、当審証人野村武、同佐田政義、同小野新、原審における被控訴人佐田晴重(第一回)、同矢野川信明、同山﨑忠彦、当審における被控訴人矢野川信明、同佐田晴重(第一回)各本人は、右主張に副うような供述をしている。

しかしながら、〈証拠〉によると、山﨑武は、昭和三年ころから途中同一二年から同一四年の間を除き、渡川において川漁師をなし、渡川を主とする内水面漁業の魚類の生態等の研究をして高知県から文化賞を受けた程の篤学者であるが、同人は、昭和一〇年ころ、雨が降つた直後や一か月も晴天が続いたときなどで差はあるものの、山路地区の北東にある渡川と後川との合流点付近で、甲ケ峰より約九〇〇メートル東北方向にある渡川の水が、晴天が二〇日くらい続くと最深部で塩辛さを感じたことがあり、それより上流ではひどい塩気を感じることはなかつたことが認められる。

右認定事実に原審証人藤井敏雄、同浜田伊豆男、当審証人桑原嘉吉、同岩城伊達男の各証言を総合すると、従前、山路地区付近の渡川の流水には塩分が存在しなかつたとの前記被控訴人らの主張は到底採用できない。

但し、昭和四〇年ころ以降大量の砂利採取が行われ従前渡川にあつた瀬や洲がなくなつた程であるから、それだけ川が深くなり海水の浸入が増加し、従前に比べ山路地区の渡川の塩分が増加したとみてよいが、元々大きな川のことであるからそのための増加量がどれ程であるか正確に判断することはできない。

4  被控訴人らの井戸水の使用状況

〈証拠〉を総合すると、次の事実が認められる。

山路本村水利組合は、昭和二二年ころ、灌漑用取水井戸を掘削し、一分間に一六〇〇リットルの揚水能力を有する五インチポンプにより、同三三年から同三五年の最盛期には、七町歩余の田畑に対し、毎年五月初旬から八月下旬まで、一日につき一三ないし一五時間にわたり揚水してこれを灌漑用水にしてきたが、新中筋川の完成に伴い、同四三年ころには、三町歩の耕地に対し、灌漑給水を行つていた。

被控訴人鎌田を除くその余の被控訴人は、前記のとおり、いずれもビニール・ハウスによりきゅうり、トマト等の栽培をしていたものであるが、昭和四四年一一月ころのその栽培面積は、被控訴人ら以外のものをも含め合計約二ヘクタールであり、きゅうりの場合は、二、三日ごとに灌水し、一〇アール当たり一回の灌水量は一万リットル、トマトの場合は、七ないし一〇日ごとに灌水し、一〇アール当たり一回の灌水量は六〇〇〇リットルくらい必要であつた。抑制きゅうりは、秋ころ播種し、翌年初めころまで収穫され、促成きゅうりは、秋ころ播種し、翌年夏ころまで収穫があり、後作きゅうりは、初冬に播種し、抑制きゅうりを引き揚げた跡へ植えるものであり、また、きゅうりとトマトの栽培面積は、年によつて変化があるが、昭和四四年度では、きゅうりが一万〇二二二平方メートル、トマトが四九八五平方メートル(被控訴人ら以外のものを除く。)であつた。

なお、被控訴人鎌田がい草の栽培にどの程度井戸水を使用していたか不明である。

5  因果関係

(一)  本件地下水と新中筋川の塩水との関係

被控訴人鎌田、同細木は、前記のとおり、いずれも新中筋川の南岸(右岸)で井戸水を揚水しているものであるところ、当審における検証の結果(第二回)によると、山路橋南詰めの橋脚東側河床の表層土は砂利であることが認められ、新中筋川が塩水化していることは前記のとおりであるから、仮に、右被控訴人らの井戸水が揚水される帝水層と新中筋川の砂利層が連絡しているとすれば、新中筋川の塩水による影響を受けることが考えられるが、その場合でも、被控訴人らの井戸水の使用量により塩水化しないことがあることは後記のとおりであるから、これらの点を証拠で認定する必要がある。

ところが、被控訴人鎌田、同細木は、当裁判所において、その井戸の深さ等について釈明に応じないし、〈証拠〉によると、同被控訴人らは、中村農業改良普及所で井戸水の塩分濃度の調査を受けた際にも自己の井戸の深さを明らかにしなかつたことが認められるのであり、原審における被控訴人佐田晴重本人尋問の結果(第一回)によると、新中筋川右岸にある被控訴人山﨑益夫の飲料用井戸の水が塩辛くなつたことが認められるが、その詳細も不明であり、かつ、当審における検証の結果(第一回)によると、右井戸と被控訴人鎌田、細本の各井戸とは山をこえて数百メートル離れていて用途も異なるものであるから、これにより推認することもできないし、本件全証拠をし細に検討しても、右被控訴人らの井戸の詳細な状況を認めるに足りる証拠がないので同被控訴人らの井戸水の塩水化と新中筋川の塩水との間に因果関係を認めることはできない。

被控訴人鎌田、同細木を除くその余の被控訴人らの耕作地は、前記のとおり、いずれも新中筋川の左岸であり、かつ、渡川の右岸に位置し、塩水化した両川にはさまれ、あたかも海に突出た半島において農業を営むと同様の状況におかれるに至つている。

〈証拠〉を総合すると、次の事実が認められる。

山路地区の地質は、室戸層群の清水層に属し、固結堆積物が現地形の基盤を形成し、その上位は第四紀堆積物におおわれている。新中筋川左岸沿いにおいて、上流部は微細な粘土又はロームによつてかなり深く(約四メートルないし六メートル)までおおわれ、下流部でその層は薄くなつているが、新中筋川の底質は、難透水性(透水係数k=10-6〜10-8cm/s)の腐植まじり粘土である。控訴人は、昭和四八年一二月一日午前八時から午後一一時まで、同月一一日午前五時から午後九時までの二日間にわたり渡川と新中筋川山路橋下における同時水位観測をしたところ、後者において一時間くらい逆転したことはあるが、おおむね渡川の水位が新中筋川のそれよりも高いことが記録され、他方、被控訴人佐田晴重ほか七名は、同年同月二日から三日にかけて及び同月一一日から一二日にかけてそれぞれ二四時間にわたり、渡川と新中筋川において、右同様の調査をしたところ、大潮の時の干潮時には新中筋川のほうが渡川よりかなり高いことを記録したが、そのほかはおおむね控訴人の右観測記録と同じような結果であつた。

もつとも、〈証拠〉によると、被控訴人らが昭和四八年一一月二九日と翌三〇日にわたつて、新中筋川左岸の山路橋上流約一五〇メートル付近河川敷遊水面で川岸より七メートルの場所を手掘りしたところ、地表面より約三〇センチメートルは粘土まじりの表層土であり、次に湿潤した砂質土、地表面から九〇センチメートルで玉砂利層となり、多量の塩水が湧出し、その塩分濃度を測定したところ、2.0モーあり、同時に新中筋川表面水を採取して同様に測定したところ、3.5モーあつたことが認められるが、山本鑑定によると、地質の調査において、一部に他と異なる層が現われることはよくあることがうかがわれ、川岸に近い河川敷を掘つた場合に川の水が湧き出ることは異例とするに足りないから、これらの事実をもつて前記認定を左右することはできない。また、当審における被控訴人佐田晴重本人(第三回)は、山路橋の上流約一五〇メートルくらいから合流点までは粘土質のようなものはなく、全部砂利であり、新中筋川を掘削した際、小市橋からドウカ橋の少し上流付近の土を取つて田の客土に使つたが、そのとき、河床になる部分には相当砂利がまじつた土砂であつた旨供述するが、この程度のことで全体を裏付ける証拠とはいえないばかりか、前掲各証拠に照らすと、にわかに右供述を採用することはできない。更に、〈証拠〉を総合すると、山路橋より下流の新中筋川の左岸は、控訴人が災害復旧工事を施行するほど洗掘されたことが認められるが、川水の流れ具合で岸辺が洗掘されることがあつても、それが当然河床の洗掘とはならないし、前記のとおり、渡川の水位は、おおむね新中筋川の水位より高く、山本鑑定によると、山路本村地区における地下水は、第一被圧水が西方から東方へ、第二被圧水が南西から東北方向へそれぞれ流れていることがうかがえるので、これらの事実に照らすと、右洗掘があつたからといつて直ちに、新中筋川の塩水が山路本村地区の地下水に混入すると認めることはできない。

右認定事実によると、新中筋川の沿岸及び河床面は難透水層でおおわれているうえ、渡川の水位が新中筋川のそれよりおおむね高く、時には右水位が逆になることはあるが、右難透水層の透水係数がきわめて小さいから、新中筋川からの塩水が山路本村地区の地下水へ浸入することはほとんどなく、たとえそれがあつたとしても、その量は極めて少ないものと判断する。

斯様に渡川の水位が新中筋川により高く新中筋川の底が難透水性であるから新中筋川の塩分が山路本村地区の地下水へ浸透することはないと判断することに被控訴人らは強く反対しているが、〈証拠〉、当審における山本鑑定によると、訴外相愛工業株式会社は、本事件発生後、建設省中村工事事務所の依頬を受け、山路本村地区の新中筋川左岸二か所で深さ13.5メートルの第一ボーリングと深さ10.4メートルの第二ボーリングを行つて地質を調べ、かつ、前記中村工事事務所がそれより先訴外極東コンサルタントに依頼して行つた深さ19.5メートルの第三ボーリングによる調査に基き高知大学農学部利水工学研究室の近森邦英らの協力を得て乙第八号証の報告書を提出し、同文を近森邦英らが高知大学の学術研究報告として発表したのが乙第九号証であるが、これらによると、山路地区の新中筋川左岸の地質は、第一、第二ボーリングの場所では地表から約四メートル下まではロームとか粘土があり、第三ボーリングの地点では約六メートル下まで粘性土であり、これらが難透水性であることを示しているので、関係地の全域もらさずとはいえないが、これが三か所のボーリング結果であるに過ぎないとして軽視することはできず、これにより付近一帯を推定することは経験則に合致するので被控訴人らのこれに反する主張は採用できない。

(二)  本件地下水と渡川の塩水との関係

被控訴人鎌田、細木は、前記のとおり、いずれも新中筋川の右岸において井戸水を利用しているものであるが、前記のように、新中筋川の流水は、河床が難透水性であるため進水がないとすると右被控訴人らの井戸水と新中筋川の塩分との関係はないことになるが、そうでなく被控訴人鎌田、細木以外の被控訴人らと同様渡川の塩分が影響しているかも知れないので全被控訴人についてその地下水の塩水化と渡川の塩水との関係を検討する。

山路本村地区の地下水に渡川の塩分がその河床から浸入することは、当事者間に争いがない。

山本鑑定によると、地下水には不圧水と被圧水があり、不圧水は浅層地下水といわれ、自由水面をもつ循環性の地下水であつて降雨等で直接かん養され、その大部分は基底流出として河川に流出し、場合によつては地表水の一部が伏浸して地下水となる、伏流水というのはこの地下水をさすこと、この不圧水は河川水と密接不離の関係にあり不圧水を大量揚水すれば河川の基底流量の減少が起る、被圧水は深層地下水と呼ばれ通常は加圧層のもとで著しく被圧されている地下水を指し、不圧性に比べて滞留時間は著しく長期であるといわれている。被圧水は単位面積当りのかん養量が不圧水より少なく、自然の循環利用から考えると水質源としての価値は低いが貯留量が大きいので一時的な水資源としての価値は大きい。更にその下に循環しない超深層地下水があるといわれているが本件ではこれに言及する必要のないこと、本件の山路地区で地下水を胚胎する地層は地下約二〇メートル位までの第一砂れき層と更にその下約四〇メートル位までの第二砂れき層から成り、この第一砂れき層に第一被圧水が第二砂れき層に第二被圧水があり、被控訴人らが採つていた地下水は右の第一被圧水からのものと想定されるといい、成立に争いのない甲第三四号証の二等によると、ヘルツベルグの法則といつて臨海部の地下水には海水が浸入して地下水を塩水化する、陸から海に向つて流出する淡水と海から地中に浸入する塩水が接触すると、密度の高い塩水は淡水の下にもぐりこみ、地下のある深さで釣合つて塩淡水境界面を作る、海面からこの境界面までの深さをH、海面上の淡水の厚さをhとすると、水の比重は一、塩水は1.042であるからH≒42hという公式が成立つ。例えば、海岸の井戸でその水位を海抜零メートルの状態にしておくと、hが零であるから、Hも零となり地下水は完全に塩水化しこのhが零以上であれば海面より下へhの四二倍の深さに達する地層の地下水が塩水化するといわれている。

右の各事実に〈証拠〉を総合すると、次の事実が認められる。

山路本村地区は、厚さ三ないし九メートルの沖積層砂質土の下部に二ないし十数メートルにわたる沖積砂れき層があり、更にその下部には場所により岩盤のみのところもあるが、かなりの場所で最高地下四〇メートルくらいにわたる泥質土の層があり、その下部の南側付近に洪積砂れき層が存在している。被控訴人らは、いずれも地表下九ないし一〇メートル付近の砂れき層中の第一被圧水をポンプで揚水し、井戸水として利用していた。同地区は、地下水に鉄分を含んでいたり水脈が豊富でないため、井戸を設けていない人家もあつて、被控訴人山﨑忠彦は、数が所掘つてようやく井戸水を掘り当てた。右沖積砂れき層は、渡川の河床と部分的につながつていて、右第一被圧水は、主として、同地区における降水によりかん養されているが、渡川の伏流水と一部つながりかん養関係にある。渡川では、流量、潮況、河床の状況等によつて変化はあるが、河口付近から海水がくさび型に遡上していて、流量が毎秒二〇立方メートル以下になると、遡上が大きくなる。山路本村地区は、地下水の賦存状態、性状からみると、山路本村集落部、同耕地部、新中筋川沿岸に大別されるが、新中筋川沿岸地域には第一被圧水を欠くか、きわめて少量しかなく、右集落部、耕地部には、第一被圧水はあるが、耕地部の地下水頭は、本件塩害発生前において、TP0.1ないし0.3メートルくらいしかなく、その上部には淡水、下底には塩水が静止していた。

被控訴人らは、中村農業改良普及所職員の指導を受けて、早い者で昭和三五年ころから、ビニール・ハウスによる園芸を始めるようになり、それに必要な水をとるため、各自が井戸を掘つたが、井戸水の水質を検査してもらうようなことはなかつた。ところが、被控訴人佐田晴重方の井戸水が、昭和四〇年ころから塩辛く感じるようになつた。同地区は、約一三ヘクタールの面積があるが、昭和四〇年ころからビニール・ハウス園芸が急激に増加し、同四四年には、合計一万六三六九平方メートルに及ぶビニール・ハウス園芸が行なわれるようになつた。高知県地方は、全国的にみても降水量の多いほうであるが、昭和四四年の降水量の合計は二二三五ミリメートル、同四五年のそれは二六四六ミリメートルであつた。降水は、一時的に多く降つても流れてしまうのが多いので徐々に少しずつ降るほうが地下水をかん養しやすいものであるところ、高知県中村市では、同四四年一二月、月間一三七ミリメートルの降水量(ただし、一日につき0.5ミリメートル未満のものを零とする。以下同じ。)同四五年一月、月間四六ミリメートルの降水量があつたが、そのうち、同四四年一二月には、六日に七七ミリメートル、七日に四五ミリメートル、同四五年一月には、二九日に八ミリメートル、三〇日に二七ミリメートルの各降水量があり、また同四四年一二月八日から同四五年一月二七日(前記被控訴人らが塩分濃度の検査を受けた日)までの約五〇日間に合計二〇ミリメートルしか降水量がなかつた。右期間は、同地区が明治二七年から昭和四六年までの間、日雨量が五ミリメートルを越えない日が三〇日以上続いたのを基準にしてみると、五番目に雨量が少なかつたと記録されている。これと同時に、渡川の流量は、具同地点において、昭和四四年一二月二一日ころから同四五年一月三〇日ころまでの間、継続的に毎秒二〇トンを割る状況であつた。

被控訴人らと同じく山路地区に住む訴外小野和吉は、現在、ドウカ橋北詰めの北方約三〇メートル以北にビニール・ハウス二棟を設け、その付近の地表下約四五メートルの被圧地下水をポンプで揚水し、これを灌水に利用して良好な状態で園芸栽培をしていて塩害を被つていない。

右認定の事実に前記3及び4の認定事実を総合して考察すると、被控訴人らの井戸水が塩水化したのは、砂利採取等により塩水化した渡川の水が直ちに、その井戸の地下水に入つたとかもつと直接の影響をもつたためではなく、むしろ、被控訴人らがビニール・ハウス園芸のため第一被圧水の自然かん養量を上廻る井戸水を汲取つたことに基因して、従来はその耕地部の第一被圧水に当たる地下水上部層に淡水が、下底層に塩水が淡塩水境界面を作り、その境界面で淡水と塩水が釣合つて静止していたのに、右井戸水の汲取のため、ヘルツベルグの法則でいうhの数値を構成する淡水が減量し、その減量に相応して、その塩淡水境界面が従前の水位より上昇変動し、同地下水の水頭がTP零メートル以下に低下したためであるとみられる。

すなわち、山本鑑定によると、日本の水の平均かん養量は、一日一ミリメートルであり、これによると、山路本村地区の耕地部では揚水量は一日当たり六〇立方メートル位が相当であるといえるところ、前記認定事実によると、被控訴人らは、本件塩害が発生したころ、一日当たり全体で約一三〇立方メートルを越える揚水をしており(被控訴人らも耕地全体で灌水の使用量が一日当たり約一二一立方メートルであつたことを自認している。)、高知県地方が多雨地帯であるとはいつても、当時は渇水期であり、約五〇日くらいにわたつて雨量が極端に少ない時期でもあつたから、右揚水量は、明らかに自然かん養量を越えていたものというべきである。もつとも、右第一被圧水の自然かん養量を検討するには、渡川からの伏流水の流入も考慮しなければならないが、山本鑑定によると、右地区においては、勾配が非常に小さく、ダルシーの公式(断面積A、長さlの砂層の両端に動水勾配を与えた際砂層を定常的に通過する流量QはQ=K・A・h/lで与えられる。Kは浸透係数と呼ばれ、土粒子の大きさ、形状、水の動粘性係数などに支配される定数。この法則があてはまるのは動水勾配が流速に比例する層流状態に限られるという法則であることは、当裁判所に顕著である。地学事典六六四ページ)によると、砂れき層中の水の浸透速度が一日当たり四ミリメートルであることがうかがわれるので、これによれば、前記結論には影響がないものと考えられる。そして、右のとおり、自然かん養量を越えた揚水がなされた結果同地区の第一被圧水の地下水頭がTP零メートル以下に低下させられ、ヘルツベルグの法則により同地下水が塩水化したものが大部分であつて、渡川の塩水が河床から右地下水へ浸入したり、より直接の影響があつたものは極く一部に過ぎなかつたものと判断する。

もつとも山本鑑定においても、山路地区の井戸水は被圧水で渡川の水が直接入つているのではないという一方、甲ケ峰寄りのA地区の地下水の塩分は生活用水から来たものとみられるが、東側のB地区の地下水の塩分は渡川の水によるといつたりしていること、また、昭和四五年一二月から翌年一月までの雨量にしても前掲乙第一四号証のグラフ、甲第六九号証からすると、山本鑑定のように渇水という程のものであつたとみることに疑問の点もある等山本鑑定にも不完全な部分があると思われるが、本件の井戸水の殆んど全部が永い貯留期間を経た第一被圧水からとれるもので渡川の水が直接大量に浸入するものでないという点は被控訴人らの主張する塩分の濃度からみても首肯せざるを得ず、この島状の山路地区全体が海水を含んだ渡川に臨んでいるものといえるので井戸水を汲上げたため井戸の水頭位置がTP零メートル以下となりヘルツベルグの法則により地下水に塩分が入つたという点は肯定できるので、その全部ではないがその大部分は被控訴人らの過剰揚水による結果であるという控訴人の主張は理由があるものと認める。

ところで、被控訴人らは、山路川流域面積は約9.4平方キロメートルであり、年間平均降雨量は二九〇〇ミリメートルであつて、流域全体の降雨によるかん養量は一日平均約五万九二三二立方メートルと計算され、これは前記被控訴人ら使用水量約四九〇倍に当たるし、使用水の一部は地下を湿潤するから被控訴人らが過剰揚水することはあり得ないと主張する。しかしながら、山本鑑定によると、山路川流域はシルト質からなる低湿地で雨水の浸透はむずかしく、かつ、地表面の流出もあるから、第一被圧水をかん養する量は、前記認定の程度であることがうかがわれ、また、使用水の一部がどの程度に地下へ浸透するかを認めるに足りる証拠はないから、被控訴人らの右主張は採用できない。

また、被控訴人らは、本件ハウス栽培に使用された八本の1.5インチポンプの揚水量が新中筋川開通前に使用していた五インチポンプの揚水量よりはるかに少なく、数千年もの長期にわたり井戸水が枯渇したことのないことをもつて、過剰揚水してない旨主張する。しかしながら、前記4のとおり、被控訴人ら主張の右五インチポンプは、毎年五月初旬から八月下旬まで使用されるものであり、前掲各証拠によると、同時期においては降水量に恵まれていることが認められ、本件ハウス栽培が昭和三五年ころから始められたもので、それまでは夏期の稲作のほかは地下水を使用しない野菜の露地栽培が行なわれていたにすぎないことが認められるのであつて、これらの事実によると被控訴人らの右主張も採用できない。

なお、〈証拠〉によると、被控訴人らは、昭和四五年一月二七日ころから後は、本件各井戸から揚水していなかつたが、同月二九日、三〇日に合計三五ミリメートルの降雨があつたので、同年二月三日に井戸水の検査をしたところ、塩分濃度は一様に減少していた。しかし、被控訴人らは、その後も揚水を中止していたのに、同年三月一〇日には、ほとんどの井戸水が右一月二七日のそれよりも高い塩分濃度を示し、同四八年一一月二九日においても、被控訴人山﨑忠彦の井戸水が三二6.5PPMの塩素イオンを含んでいたことが認められる。、山本鑑定によると、山路本村地区においては、現在も地下水位がマイナスを示しており、地下水は、一度塩水化すると相当期間たたなければ回復しないものであつて、本件地区の地下水の滞留時間が七〇数年であるというのであるから、右認定のように、被控訴人らの揚水中止後もその井戸水の塩分濃度が残留していることは、前記過剰揚水の認定を左右するものとはいえない。

なお、前記のごとく訴外小野和吉の井戸水が塩水化していないのは第二被圧水を揚水しているものと認められるので、被控訴人らも事前に水質を調査し第二被圧水を利用することにより本件のような塩害を未然に防止する余地があつたと考えることができる。

付言するに、被控訴人らは、山本鑑定が地下水調査準則によらず、揚水量の測定等もしなかつたもので措信できないと主張するが、右準則が水質調査作業規程準則(昭和三四年一〇月二三日総理府令第五八号)をいうものとすれば、同準則は、国土調査法に基づく調査をする際に準拠すべきものであつて(同準則第一条参照〉、裁判所の鑑定の際には必ずしもこれに従う必要はなく、また、鑑定に際し、鑑定人自身が測定等しないでも、他人に委託し、又はすでに存在する資料を利用できることは当然であるし、被控訴人らの疑問とする諸点は、当審における山本鑑定人に対する尋問で解明されたものと認められ、成立に争いのない甲第六八号証にある新聞に載つた「サフアリ建設と環境汚染」と題する記事にある山本鑑定人に関する記事は本件と直接関係はなく、かつ、これは右尋問において、山本鑑定人に無断でその名義が使用されたものであることが認められるので、山本鑑定人の判断が信用できないということにはならない。

三控訴人と中村市長間の覚書について

控訴人が訴外中村市長との間で昭和三四年二月五日に「中筋川筋については、現在以上に塩害が及ばないように処置する。」旨の条項を含む覚書を締結したことは、当事者間に争いがない。

被控訴人らは右覚書は訴外中村市長が被控訴人らの代理人として控訴人と協定したものであると主張するが、本件全証拠をし細に検討しても、右主張事実を認めるに足りる証拠はない。

もつとも、前掲甲第一号証によると、右覚書は、建設省起業渡川改良工事のうち、甲ケ峰開削工事に伴う山路地区の補償等について合意されたものであり、その当事者である建設省四国地方建設局長山崎博、訴外中村市長森山正及び立会者高知県知事溝渕増巳の間に取りかわされたものではあるが、これと同日付で、同市長から同地方建設局長あてに、「右覚書の各項目については、山路部落のうち大多数の一一三戸は既に同意済で、事実上了承しているが行掛り上同意書に捺印するに至らないものが一五戸残つており、同市長において右一五戸に対して更に説得を続けるとともに、建設省の工事施行に支障のないよう努力する。」旨の請書が提出されていることが認められ、また、前掲乙第一号証によると、昭和四五年三月二〇日に建設省四国地方建設局中村工事事務所が編集して発行した「渡川改修四十年史」の三八四ページには、「甲ケ峰開削に関して昭和三二年一月二八日山路地区代表者から陳情書形式で一五項目にわたる要求書が出されてきた。これに対し幾回となく交渉を持つたが容易にまとまらず、要求の中には地方建設局のみでは解決できない事項もあり、中村市も早い解決を希望し市議会に特別委員会を設ける等積極的な応援が続けられた。その後地方建設局としても種々検討の結果、さきの要求書に対し回答を発表し、部落代表は不満ながらもこれを了承して昭和三三年三月五日事務所長と地区民総員代表として中村市長との間に覚書が交換されるに至りようやく解決と思わせたが、地区民のうち一〇数名がこれに同意せず絶対反対をとなえた。」旨記載されていることが認められる。右の事実によると、訴外中村市長は、右覚書を取りかわすに当たり、事前に山路地区の同意を取り付けようとしその大多数からその同意を得ていたこと、控訴人の前記工事事務所においては訴外中村市長を地区民総員の代表として認識していたものということができ、そうすると、控訴人は、訴外中村市長を被控訴人らの代理人に準じてみていたのであるから覚書の効力が被控訴人らに及ぶと解する余地もある。

そして、原審における被控訴人佐田晴重本人(第一回)は、山路川の河口には以前、多少塩分があり、非常な渇水期になれば塩分に災いされないように河口をせき止めて水を汲んでいたと年輩の者から聞いた旨供述し、原審証人小野勇吉は、山路地区は、台風の時などに潮風が吹いて一時的に野菜が被害を受けたことがあり、大水の時などには、どうしても海水が浸入してくることがあるので、覚書にいう「現在以上に」とは、右のような場合を塩害とみたのだと思う、真水が塩水に変るのは防いでもらわねばならない旨供述し、原審における被控訴人矢野川信明もこれと同旨の供述をしている。

しかしながら、右各供述をもつて、前記覚書の条項につき被控訴人らとの間で具体的な合意をしたものと認めるのは困難であり、本件全証拠をし細に検討しても、これを被控訴人ら主張のように解しうる根拠はない。

すなわち、前記覚書の条項は、控訴人が政治的行政的に中筋川沿岸にいる被控訴人らに対し当時予見できた範囲で行われる農業その他の生活上その当時以上に塩害が及ばないように処置すると約したものと解されるところ前記のとおり、被控訴人細木のビニール・ハウスによる園芸栽培は、右覚書の締結後に始められたものであり、しかも、渇水期である冬期に多量の水を必要とするものであつて、また、被控訴人鎌田のい草の栽培は、水の使用量は不明であるが、前記のとおり、両被控訴人は、いずれもポンプにより地下水を揚水してこれを利用していたものであるところ、原審における被控訴人矢野川信明本人尋問の結果によると、右覚書が「現在以上に塩害が及ばないように」というのは当時一般に予見できた塩害の防止を指し、本件のように、地下水に塩分が入ることまで予想していたものと解することはできないのみならず、控訴人のこの覚書による政治的行政的約束は昭和四九年三月二九日控訴人が中村市に金二四九三万円を支払い(この点は当事者間に争いがない。)、原審証人長谷川賀彦の証言によると中村市はこの金員に追加金を加え山路地区住民が必要とする水の供給のため簡易上水道、ハウス移転、灌漑用水路設置等塩害防止措置を行つたことが認められるので、これを根拠とする被控訴人らの主張は理由がない。

四結び

以上説明してきたごとく、被控訴人らの井戸水に塩害が生じたことは事実であるが、その原因が新中筋川掘削によるものであることの証明がなく、渡川も既に戦前から山路地区付近までは塩水が遡上しており、かつ、被控訴人らの井戸の水は渡川の水が直接影響したのではなく、あつたとしてもその大部分は被控訴人らが井戸水を多量に汲上げたため、同地区の第一被圧水の水頭がTP零メートル以下に下つたためであること前記のとおりである。しかしそれでも渡川の水に塩分があり、それが被控訴人らの井戸水の塩分に寄与しているとみられることは前記のとおりであるから、控訴人が昭和四〇年ころ以降渡川で大量の砂利採取を許し従前あつた川の瀬や洲がなくなる程川底を深くさせそれだけ海水の増加と塩分を増加させたことが国家賠償法にいう控訴人の営造物の管理の瑕疵に当るか否かを考察する。

しかし、この砂利採取について控訴人は前記のように全く放置していて規制していなかつたのでないのみならず、国家賠償法にいう営造物の管理の瑕疵とは当該営造物が通常有すべき安全性を欠くことをいうものなるところ、渡川程度の規模の河川の河口から海水が遡上することは当然あることだからその塩分が砂利採取によつて従前より多く遡上したとしても安全性を欠いているとはいえないし、控訴人が行政上の裁量で砂利採取を許し、塩分の増加があつたとしても、その塩分量の増加がどれ程であるか判然しないし、この程度のことは河川法第一条にいう河川の適正な利用、流水の正常な機能維持を害したとまでとは認めがたいので控訴人に営造物である渡川の管理に瑕疵があつたということはできない。このことは被控訴人らが主張するように新中筋川の塩分が被控訴人らが井戸水として汲水していた第一被圧水に影響を及ぼしたことがあつたとしても同様であるから、これを理由とする被控訴人の主張は採用できない。

五控訴人の民事訴訟法第一九八条二項に基づく請求原因のうち、被控訴人らが昭和四九年一〇月一四日に控訴人からその主張の各金員をそれぞれ受領したことは、当事者間に争いがない。そして、弁論の全趣旨によると、右各金員は、控訴人が原判決の仮執行宣言に基づく強制執行を免れるため、やむを得ず給付したものと認められ、かつ、本件は原判決を変更する場合に当たるから、控訴人は、被控訴人らに対し、右各金員の返還とこれに対する右給付の日から各支払ずみまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求め得るものというべきである。

六以上のとおり、被控訴人らの本訴請求はいずれも理由がないから、これを棄却すべく、これと異なる原判決は失当であるから取り消すこととし、控訴人の民事訴訟法第一九八条第二項に基づく請求は理由があるから、主文第三項のとおり被控訴人らに各支払を命じ、訴訟費用の負担につき、同法第九六条、第八九条、第九三条第一項を適用し、主文第三項の各金員支払いにつき仮執行の宣言を付することは相当でないからこれを付さないこととして、主文のとおり判決する。

(菊地博 滝口功 川波利明)

別紙図面〈省略〉

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